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「ごめんください」
少し低めで自信のなさが目立つ女性の声だった。常時お祭り状態の安芸さんではない。彼女の声は高音なのだ。
季節を感じさせない部屋とその住人からはわからないが、今は7月上旬、夏だ。外は熱いだろうし、元気がないのも肯ける。
既に安芸さんと配達員以外の来客を受け入れつつある僕は、ドアスコープから相手を捜した。しかし、相手は見えない。死角にいるのだろうか。まあ、わざわざ探るまでもない。
「はい、どちらさまですか?」
姿を確認できなかったので多少不信感を持っていたが、僕は礼節を損なわないよう明るく訊いた。
「私は、三木といいます」
「はあ」
聞き覚えのない名前だった。元々、知り合いではないだろう、と僕は思って訊いたのが、ハッキリ知らない名を名乗られても困る。
「こちらにで相談できるって、聞いたもので」
またか、とため息をつきたくなる。やれやれ、いつの間に僕は便利屋になったのだろう。
「そんな大層なものじゃありません。ただ聞いて、僕がそれに小言を言うだけです」
既に拒否することはあきらめていた。
少年の一件以来噂が広まった、と安芸さんが笑っていながら愉快そうに言っていたし、想像はしていたのだ。記憶の断片から推測するに僕はいつも最悪を想定する人間だった。だから、自分は前向きな臆病者だと思っている。自己分析や自己評価などというものが就職活動に意味があるのかはわからないが、今後の人生において役に立たないという事はないだろう。記憶喪失の人間には一層意味を持つ。
「お願いします。内容は恋愛ものです」
「それなら僕はあんまり」
引きこもりに、恋愛指南を受けようと考えるのがおかしい。最初に相談相手から外される人種のはずだ。ここに赤の他人という条件を加えればまずない。まともな思考の持ち主でない可能性が高いだろう。人格を否定するわけではない。人格は元より、こんなところで相談しようということ自体おかしなことなのだ。切羽詰った状況なのかもしれない。
「いえ、ここぐらいじゃないとお話できないので」
僕の言葉を遮って、三木さんはハッキリ言った。
「まあ、聞くだけですし。どうぞ」
引きこもりに恋愛相談か、と苦笑しつつ、真剣に聞くことにした。呆けた記憶とはいえそれなりに経験はあるようだったし、僕自身この手の話題は好きだった。恋とか愛とか見る分にはこれほど楽しいものはない。
「えー、付き合ってる彼氏がいるんです」
三木さんは口ごもった。どういうわけか、照れている。惚気か、と僕はため息をつきながら口元に笑みを浮かべた。
「男の人って、どういう服が好きなんですかね? 私の彼氏はこう、短いの、とか好むみたいなんですけど」
語尾が消え入りそうだった。相当な照れ屋だ。これぐらいで照れて、大丈夫だろうか、と僕は思った。心配したところで、僕にできることもない。雑念を払って、意識を彼女の会話に戻した。
「僕は流行に疎いけど、やっぱり清潔感とかかな。露出とかは好みの問題だけど、清潔感は必須でしょ」
どこかの三流雑誌みたいだ。しかし、常識というのは中々変わらないものである。まさか10年のうちに不潔感がステータスにはなっていないだろう。
「なるほど」
それから少し間を置いて、三木さんが話し始めた。
内容は男性の好みや、愚痴、それと惚気。時折、間を挟んだものの、三木さんの口調は徐々に滑らかになった。話が長くなるにつれ、調子が出てくるようだ。
答えにくい質問もなく、テンポよく会話が続いたので、一時間も経たずに三木さんは帰った。
今、思い返すと、ほとんど雑誌に書かれているような下らない助言ばかりだった。少年の時もそうだったが、普通のことしか言えていないような気がする。だからといって落ち込むことはないだろう。相談や助言というものは当人次第なのだ。
そんなことを考えながら狭い部屋の中で、惰性で続けている日課として体を動かしていると、扉がノックされた。
「生くん、こんにちは」
「安芸さん、こんにちは」
僕は定位置につく。その際、わざと音を鳴らす。それを合図に、安芸さんが話し始めるのだ。すっかり習慣化し、挨拶の工程に混入してしまった。
人間、わかりやすくしないと伝わらないことが多い。このようなことを数ヶ月の間に学んでいる。僕はいつも相手がわかる分、自分もわかりやすくしなければならないといった公平さを求めていた。
僕が無意識下にそういうことをしていたのは驚いたけれど、その反応は薄かった。
なぜなら、自分の根底にある部分が露出しつつあるからだ。もう、自分が臨めばすぐ見れる。核の部分を覆っていた膜は薄く、脆いものだった。以前は巧妙にけれども稚拙に隠されていたため、僕だけでは触れられなかったが、今ではもう触れてしまえる。そう、あとは僕次第だった。
「どうです最近?」
安芸さんが定番の質問を使用するときは、若干疲れている時だ。まあ、若干だが。
けれども、それを放置しておく気にはならなかった。
「恋っていいですよね」
僕が突拍子もないことを言うので、へ、と安芸さんは短く声を上げた。そもそも僕から話題を提供することも珍しいから、そのことにも驚いているのかもしれない。
「恋人の好みに合わせようとするとか」
ここまで言うと、安芸さんも流れが理解できたのか、可愛らしい唸り声を上げて悩み始めた。彼女はよく考える。それも間や雰囲気を読み取って考える。相談相手とすればこの上ない。けれど、彼女のところではなく、僕のところに来るのだ。
「そうですね。特に肉体は変えようがなくて悩んだりとか」
「やっぱりするんですか」
「そ、それはそうですよ」
言葉を詰まらせて安芸さんは言った。失礼なことだっただろうかと経験を手繰るが、そんなことはないだろうという結論に至った。
「でも、胸の大きさなんて変わらないのに、悩みます?」
「悩みます」
即答で強い口調だった。僕も冗談です、と茶化す勇気はなかった。
「一般論なんですね」
「そりゃあ、そうですよ」
偉そうに安芸さんがが肯定した。
「保安官に恋愛相談ってあるんですか?」
「ありますね。半分くらい相談とか、整備です。こういう話題はいつになっても変わらないものですよ」
と安芸さんは昔を懐かしむような声で言った。きっと扉の向こうで遠い目をしているのだろう。
「楽しい、ですか?」
「もちろん」
と安芸さんは誇らしげに答えた。もう見るのは止めたはずなのに、僕の視界の端には彼女の姿が見えた。胸を張って笑いながら、言っているに違いなかった。
「はい」
修理改良したチャイムに返事をし、ドアスコープから覗くと茶髪が見えた。ショートカットだったため、髪型だけなら男性にも見えなくはない。切れ長の大きな瞳がいっそう誤解を生んでいた。
「三木です」
と名乗られようやく女性だと断定できる容姿だった。化粧気がないのも要因の一つだろう。そういえば、彼女の姿を見るのは初めてだった。
「ああ、三木さんか。ずいぶん美人さんだから驚いたよ」
そう僕が言うと、三木は顔を真っ赤にし視界から外れた。やはり照れ屋である。それでいて顔に出やすい。
「あの、彼氏は長い髪が好きって言うんですけど、茶色はだめですかね?」
三木さんは美しい女性だが、話を聞く限り彼氏とやらの好みから大きく外れている。どういう経緯で付き合い始めたのだろう、と思わず考えてしまった。
「地毛なの?」
「はい」
「なら無理に染め直す必要はないと思うよ。さっきも言ったけど、君、十分可愛いし」
想像するまでもなく三木さんは真っ赤になっているだろう。表情に彩りがあるというのはそれだけで大きな魅力だ。彼氏の好みを塗りつぶしたのだろう。僕は正直な感想を述べているだけで、世辞は全くなかった。
「ちょ、ちょっとはしたないことでも積極的なほうがいいですか?」
単語選びが独特だ。そこに彼女らしさを感じる。出会って一日か経っていないけど、僕はそうした期間を考慮しない質なのだ。白紙に近い用紙には一文字でも充分残る。
「あまり無理せずにだったらね。仮にも付き合ってるわけだし、互いの気持ちだよ。愛があればなんでもできる、ってやつ」
僕はも歯に衣着せぬ言葉を躊躇なく口にした。文面は三流雑誌にも載らなそうだったが、これは経験則のようで曇りなく言えた。どういうわけか、僕は愛とかそういう言葉が好きなようである。
間が空き、そろそろ三木さんが喋り出すだろうという時に、突然、
「し、失礼します」
と彼女は言い、足音を派手に鳴らして去っていった。
「今の子誰ですか」
底冷えするような低い声で安芸さんが尋ねた。この人は一体何に怒っているのだ。三木さんに逃げられたのが悔しかったのかもしれない。見当はついているが、それをあえて意識に入れないことにした。長い人生の間に僕が学んだ処世術の一つだ。全部で三つくらいある。
それにしても五感を平均的な人間程度に抑えた弊害がこんな所で出てしまった。ままならない。問題というのは一つだけで構成されていないのだな、と思った。
「三木さん」
安芸さんは、はあ、と盛大なため息をつく。正直に僕は言ったはずだ。それに、僕も彼女のことをよく知っているわけではない。言い訳は臨機応変にするべきだ。でも、嘘を言ってはいけない。そういう点で見れば、僕の発言は最高点である。
「やっぱり男の人は女子高生が好きなんですね。あの制服お嬢様高校のものですもんね。知的でお淑やかで優しい女の子なんでしょうね」
安芸さんは珍しく偏見に満ち溢れた皮肉を口にした。「ね」の部分を強くいうので、たった3小節の間に3回も驚いた。
「へえ、三木さん女子高生だったんだ。顔しか見てなかったし、知らなかった」
となると、今日、彼女の髪しか見えなかったという事は、ドアスコープに接近していたのだろうか。こんなことを考察しても仕方ないけど、僕の性質上どうしようもない。記憶がないせいか何でも考えてしまう。
「あ、そうだったんですか」
妙に弾んだ声で安芸さんが言った。
「でも、女子高生はいいよね。僕も制服デートとか憧れましたよ」
言った後、しまったと顔を覆う。よくわからないが、そういう記憶があったため、咄嗟に言ってしまったが、僕はここに10年も閉じこもっているのだ。そんな人間が軽々しくそういう発言をしてはならない。特に今は。安芸さんに余計な希望を抱かせてしまう。
ずいぶん話していなかったせいか、僕は矛盾した言葉を口にしていることが多々ある。それを訂正するなり安芸さんに忘れさせるなり、色々逸らす手段はあったけど使うことはなかった。
知られて問題のあるものでもない。隠すのは嘘をついているようなものだ。僕が今まで何度も体験したジレンマだった。
それまではある決まりに従うことにして矛盾を誤魔化してきたが、今回ばかりはそんな気も元気もなかった。
曖昧な記憶で決定された行動パターンだけを信じるのは難しくなってきたが、僕の中ではきっちりそれを守ろうとする。だから矛盾点を生んでしまうのだ。
「そうですか」
安芸さんの口調が戻ってしまった。
しばし沈黙が流れ、いつも通りの調子になった安芸さんが、
「って、生くん高校行ってないんでしょ」
「まあ、今はね」
はっきりしない言い方だった。ここまで呪われている。
「そういえば、あの子――三木さん、何か書いてましたね」
すっかり空気を読むようになった安芸さんが話題を強引に変えた。
「書いてた?」
「はい。メモです。かなりの量でした」
「間が空くのはそういうことだったんだ」
と言い、僕は手を打ちしきりに頷いた。最近、扉から外の気配を探るのは止めたから、安芸さんたちに伝える難しさがよくわかった。探るのはどうも悪いことをしているような気分になる。
「で、彼女と何を話してたんです?」
伝わらない身振りのはずだが、安芸さんはわかったかのように話してきた。不思議なもので、扉一枚程度の壁ではわかってしまうらしい。
「恋の相談です」
「初々しいですね。彼女、可愛かったし」
と一言一言区切るように強調しながら安芸さんが言った。
「人気あるだろうね」
他人事のような僕の口調に怒ったのか、
「生くんがどう思うか聞いてるんです」
と安芸さんは語気を荒げて怒鳴った。
「可愛いよね。僕はショートも好きなんだ」
「もう、いいです」
すっかり拗ねてしまった。しかし、安芸和澄である。5分もすれば、元通りだ。僕から切り出しておいてなんだが、ようやく他愛のない会話を始められた。
「じゃ、またね」
「はい。お疲れさまでした」
安芸さんが去った後、すぐに扉がノックされた。
「あの、今いいですか」
一日を引きこもりとの会話に潰すより彼氏といた方が有意義じゃないか、と言おうとして止めた。三木さんには三木さんなりの考えがあるだろう。
「ああ、構わないよ。けど、長くいちゃだめだ。夜は危ないよ」
「はい」
そう返事をして、クスクスと三木さんは笑った。僕も笑った。冗談のつもりではなかったのだが。
「そうだ、彼のプロフィール、紙に書いて渡してくれないか。あ、そのポストから」
「わかりました」
少しして、郵便受けから紙が落ちた。
時間の割にはずいぶん綺麗な字で、量もそこそこある。
「ねえ、この人、趣味ないの?」
紙にはプロフィール欄にありがちな趣味が書かれていなかった。
書かれていたのは、クラスメイトで、部活は入っていないということ。他はいくつか具体的なエピソードが書かれている。文字の量の割には情報が少なかった。
「少なくとも、本が嫌いではありません」
また妙な言い回しだった。
「もしかして、最近出会った?」
「そうです」
僕はとりあえず、彼の追求をあきらめることにした。
相談なんてものは結局、する側の覚悟で決まる。言うだけでは大したことはできない。
そんな風に、僕は考えていたし、どうやらそういう話ではないようだ。
「じゃあ、三木さんの趣味は?」
「読書です」
言いづらそうに三木さんが言った。
「僕も読む方だったよ」
「珍しいですね」
と冷たい口調で三木さんは返した。その声は彼女には合わなくて、わざとそうしているようにしか思えない。三木さんは心根が暖かく可愛い女の子なのだ。
「そうかな。本ってさ、登場人物の人生に触れて、共感して、感動して、時には憤ったりするんだけど、楽しいんだ。だから、言葉に突き動かされる。密接に世界と関わるわけだから、どうしようもなく、ね」
紛れもない僕の本心だった。そして、僕は三木さんを探ってしまった。
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